雑記

大して忙しくもない生活には、手帳も必要ないだろう。
そう思って、今年は手帳無しで済ませるつもりでいた。だが自分の脳ミソを過大評価すると碌な事がない。

ダブルブッキングはする、メールの返事を出し忘れる、つづけざまに初歩的な失敗をしてしまった。うなだれながらキャベツを刻んでいたら、気づくと四分の一だけ使うつもりが全部切ってしまった。

明日は手帳を買ってこよう。でも6月半ばも過ぎて、そこらで売っているものかしらん?

脇道(神秘的な快楽主義者)

 「らしさ」の話題で考えているうちに脇道へそれて、以下の本のことを思い出した。 


「あなたはなぜ正直なのか」


道徳家


「今夜、すばらしいあなた方に集まっていただいたのは、皆さんが世界中で最も正直な人々であるとうかがっているからです。そこで私は、この機会に、真実についてのシンポジウムを開催したいと思います。あなた方はなぜ正直なのか、その理由を教えていただきたいのです。エイドリアン、あなたが正直である理由は何ですか?」


エイドリアン


「私の理由は、・・・」


(聖書が命ずるから、美徳だから、義務だから、社会の利益になるから、自分の名前が「フランク(正直)」だから(!)、正直だと快い(快楽主義者だ)から、等々の発言がつづく。)


道徳家


「よくわかりました。ではアーヴィン、あなたはいかがですか?」


アーヴィン


「僕も快楽主義者です。(・・)でも僕は、他の人と同じ快楽主義者ではありません。(・・)僕は、神秘的な快楽主義者ですから。」


道徳家


「神秘的な快楽主義者ですって? それは、奇妙な組合せですね。そんな言葉は聞いたことがない。神秘的な快楽主義者ということで、あなたは何を意味しているんですか?」


アーヴィン(悲しそうに)


「わかりません。」


道徳家


「わかりません? どうしてわからないんですか?」


アーヴィン


「あのですね。僕は、神秘的な快楽主義者ですから、もちろん快楽主義者でもあるのです。そして、もし僕が神秘的な快楽主義者の意味することを知ってしまうと、それを知らない場合よりも、不幸になるだろうと感じるのです。したがって、快楽主義的な立場から申しますと、僕は神秘主義的な快楽主義者の意味することを知らないほうがよいのです。」


道徳家


「しかし、あなたが神秘的な快楽主義者の意味することを知らないのであれば、どうしてあなた自身が神秘的な快楽主義者であることがわかるのですか。」


アーヴィン


「それはよい質問ですね。おっしゃるとおり、僕には神秘的な快楽主義者を定義することはできませんし、なぜ僕がそうなのかを理性的に説明することもできません。それでも、事実、僕は自分が神秘的な快楽主義者であることを知っている。つまり、ここが神秘的なところなのです。」


道徳家


「何ということだ。複雑すぎて、とてもには理解できない。」


アーヴィン


「僕にとってもです。」


レイモンド・スマリヤン著『哲学ファンタジー』より


 読むたびに笑ってしまうのだけれど、何がおかしいのか、とても私には理解できない。笑いのツボというものは、実にむずかしい。
 ところで「らしさ」というものもどこか「神秘的な快楽主義」と似通っていないだろうか?例えば万人が認める「大人」の定義を追求しても、飛ぶ鳥を追っかけるようなものだろう。ましてや、大人の誰もが理性的に認めざるを得ない「大人らしく振る舞うべき理由」を提示せよというのは、プラトンなみの大人物になって『国家』を書き直せ、と要求しているに近い。大事なのは、このような意味での大人の定義や大人らしく振る舞うべき理由を要求することよりもむしろ、自分が大人であると認めていることの方ではないか。(6月2日のコメント欄で瀧澤さんが言われたことも、これに近いと思う)
 そこでできることといえば、自分が大人であるならば、己の信ずる最良の形で大人らしく振る舞うよう努力することくらいだろう*1。それが、流布している「大人らしさ」からどれほど隔たったものになるかはその人次第である。
 ・・とまあ、考えてはみたのだが、これが「大人らしさ」だけでなく他の「らしさ」にも当てはまるかどうか、心もとない。


 実をいえば、アーヴィンは「神秘的な快楽主義者」で彼が意味していることをきちんと知っている*2。パズルの好きな方はご一考あれ。


 このトンチンカンな対話を書いたスマリヤンという人は著名な論理学者なのだが、マジシャン・ピアニストでもあるそうで、「チェスの定跡から老荘思想にいたるまで、一般解説書を十冊以上」(高橋昌一郎「訳者あとがき」)ものしている。ご本人も相当にトンチンカンな方のようである。こういう人、好きだ。

*1:〜であることに重きを置かないという選択肢も、実際そう思っているならば最良の選択肢でありうる

*2:アーヴィンは「自分が神秘的快楽主義者だ」と知っているが、この点だけはなくて、「自分が「神秘的快楽主義者」で意味していること」も知っている。しかし、それを知っているということは・・?

一般論の役割と「らしさ」の圧力

 私がブログを始める直接のきっかけになったのが、瀧澤さんのブログへのコメントだったことは昨日書いたとおり。そこで話題になっていた「らしさ」について、b_say_soさんが瀧澤さんへ返答を書かれていた。


[_]らしさについて(瀧澤さんへの返答)http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070602
(瀧澤さんのブログは http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070603 私は「通りすがりの者です」という棄てハンでコメントを書き込んでいる。)


瀧澤さんのブログでコメントした「一般論の目指すものは何なのか?」という観点から、少し考えてみる。b_say_soさん、瀧澤さん、本来でしたらお二人のブログでコメントすべきところかもしれません。ご容赦ください。


b_say_soさんの主張で一番大事なのは、次の部分だと思われる。


>ただし、私は「ある属性を共有するからといってそれ以外の属性も共有しているとは限らない」ので、推測するのはともかく、「らしくあるべき」という圧力をかけることに対しては違和感を覚える、と思っています。属性に人間性を規定されるのではなく、あくまでも人間が属性を規定する。有しているかいないか、それだけであって、そこに強制力はないだろう、ということです。


>本人の有していない「らしさ」を「持っている」と推測される分には仕方ないかと思いますが「持っているべきである」「持っていないのはおかしい」というには疑問を感じます。


 確かに、例えばキリンとカバがどちらも動物の範疇に属するからといって、「キリンは首が長いから、カバも首が長い」という推論は演繹的には誤っている。推測しても構わないが、はずれることはあり得る。事実認識ということであれば、話はここでお終い。
 しかし、争点は事実認識の部分にあるのではなさそうだ。瀧澤さんが「社会からの「らしさ」の強制」と言い、b_say_soさんが「「らしくあるべき」という圧力」と言うとき、問題になっているのはむしろ、社会の同調圧力、あるいは社会規範についての見解のずれだろう。


 知り合いに数学科出身の人(Xさんとしよう)がいる。居酒屋で初対面のおっさんに話しかけられたが、専攻を尋ねられて「数学科でした」と言ったら、間髪入れず「数学で人生は語れない」と返されたそうだ。これなどは勘違いした「らしくあるべき」という圧力の例だろう。一つの属性があてはまっただけで、いくつも余計な属性をあてがわれては堪らない。そんな荷物までしょわせてくれるな、と言いたくなる。
 このおっさんとの会話がどうなったのかは知らないが、ただし、おっさんの思いこみが修正される可能性も少ないながら残っている。話し続けるうちに、「Xさんは数学科だから人情味がない」わけでもないことが伝わるかもしれない。ところが、一般論となるとそうはいかない。Xさんが人情味のない人ではないとしても、おそらく例外として扱われ、「数学科出身の人は人情味がない」という思いこみは残りつづける。こんな役立たずの一般論に、なにか意味があるのか?と疑問が生じるのも当然である。


 一般論の目指すものを、(対話の初期段階ではなく)個人間の継続的なやりとりのための枠組みと考える限り、大して役に立たないのは仕方がない。個々人の細やかな特徴を掬い取るようにはどだい出来ていないのだから。しかし、一般論の役割はおそらく別のところにある。
 瀧澤さんの論点に乗っかってコメント欄にも書いたが、或る程度以上の規模をもつ社会では、その社会を維持する作業を個人間のやりとりにのみ頼ることができない。同じ町に住む赤の他人がどう振る舞うのか、全く予測がつかないような状況では生活もおぼつかなくなる。各々の社会的役割に応じて、こう振る舞うに違いないし、こう振る舞うべきだ、という「らしさ」の圧力は、社会の維持にとって不可欠なのである。つまり、赤の他人の行動を推測することができること、その推測が明日も通用するために機能するという側面を、「らしさ」の圧力はもっている。
 ところが、この圧力が当の社会に属する人々にとって、かえって厄介な結果を産むことがある。「数学科出身は合理的だが冷たい」とか、「血液型Bの人はいい加減だ」とか、お話にならんものから、あるいは「男子厨房に入らず」などというモットーが廃れて久しいにもかかわらず、女性のみに料理の腕を求める傾向は根強く残っていることなど、例には事欠かない。しかも、こうした傾向は往々にしてたんに押しつけられているのではなく、多くの人が(一般論を展開するひと自身も含めて)じつは内面化しているものだからこそ、なかなか消え去らない。では、こうした厄介事をどうあつかうべきか?個人間のやりとりで片を付けることはできない。相手にしているのは特定個人間で閉じた私的な領域ではなく、こういってよければ公的な領域だからだ。つまり、どのような「らしさ」を求める社会がより住みやすいか、それが問題になっている。


 そしてこの場面でこそ、一般論が必要になる。一般論は、「人ってこういうものだよね」という「らしさ」の再確認・強化と、「人ってこうはいかないよね」という「らしさ」の修正・転換を目的とした、「らしさ」の修理点検作業ではないだろうか。こう考えると、一般論にもそれなりの価値と役割を認めることができそうである。




 

ブログ開始のごあいさつ

 あちこちのブログを読んでいると、コメントしたくなるときがある。ところが、コメント欄に棄てハン(一度きりの仮名のことだと思う)で書き込んでも少し物足りなくなってくる。コメントを書いているうちに気づいたことや、別の話題になってしまうのでコメント欄には書きこみづらいことなど、自分で書く場があっても良い気がしてきた。
 そんな折り、瀧澤さんという方のブログに書き込みしたところ、返答いただいた後で「棄てハンじゃなくて、個体特定できるようにすればいいのに」とのお奨めをいただいた。同じ仮名を使いつづければよいだけのことで、別に「ブログを始めてみたら」と勧められたわけでもないのだが、個体認識という点でも、また長文のコメントをするときなども自前の場所があるとより良さそうだ。
 そんなわけで、ブログを始めてみようと思う。しばらくは他の方のブログで興味をそそられた記事について書いてみるという他力本願なブログになりそうだが、本を一章ずつ読んで批評していくというのも良いかもしれない。目に留めてくださった方、以後よろしくお願いします。