一般論の役割と「らしさ」の圧力

 私がブログを始める直接のきっかけになったのが、瀧澤さんのブログへのコメントだったことは昨日書いたとおり。そこで話題になっていた「らしさ」について、b_say_soさんが瀧澤さんへ返答を書かれていた。


[_]らしさについて(瀧澤さんへの返答)http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070602
(瀧澤さんのブログは http://d.hatena.ne.jp/takisawa/20070603 私は「通りすがりの者です」という棄てハンでコメントを書き込んでいる。)


瀧澤さんのブログでコメントした「一般論の目指すものは何なのか?」という観点から、少し考えてみる。b_say_soさん、瀧澤さん、本来でしたらお二人のブログでコメントすべきところかもしれません。ご容赦ください。


b_say_soさんの主張で一番大事なのは、次の部分だと思われる。


>ただし、私は「ある属性を共有するからといってそれ以外の属性も共有しているとは限らない」ので、推測するのはともかく、「らしくあるべき」という圧力をかけることに対しては違和感を覚える、と思っています。属性に人間性を規定されるのではなく、あくまでも人間が属性を規定する。有しているかいないか、それだけであって、そこに強制力はないだろう、ということです。


>本人の有していない「らしさ」を「持っている」と推測される分には仕方ないかと思いますが「持っているべきである」「持っていないのはおかしい」というには疑問を感じます。


 確かに、例えばキリンとカバがどちらも動物の範疇に属するからといって、「キリンは首が長いから、カバも首が長い」という推論は演繹的には誤っている。推測しても構わないが、はずれることはあり得る。事実認識ということであれば、話はここでお終い。
 しかし、争点は事実認識の部分にあるのではなさそうだ。瀧澤さんが「社会からの「らしさ」の強制」と言い、b_say_soさんが「「らしくあるべき」という圧力」と言うとき、問題になっているのはむしろ、社会の同調圧力、あるいは社会規範についての見解のずれだろう。


 知り合いに数学科出身の人(Xさんとしよう)がいる。居酒屋で初対面のおっさんに話しかけられたが、専攻を尋ねられて「数学科でした」と言ったら、間髪入れず「数学で人生は語れない」と返されたそうだ。これなどは勘違いした「らしくあるべき」という圧力の例だろう。一つの属性があてはまっただけで、いくつも余計な属性をあてがわれては堪らない。そんな荷物までしょわせてくれるな、と言いたくなる。
 このおっさんとの会話がどうなったのかは知らないが、ただし、おっさんの思いこみが修正される可能性も少ないながら残っている。話し続けるうちに、「Xさんは数学科だから人情味がない」わけでもないことが伝わるかもしれない。ところが、一般論となるとそうはいかない。Xさんが人情味のない人ではないとしても、おそらく例外として扱われ、「数学科出身の人は人情味がない」という思いこみは残りつづける。こんな役立たずの一般論に、なにか意味があるのか?と疑問が生じるのも当然である。


 一般論の目指すものを、(対話の初期段階ではなく)個人間の継続的なやりとりのための枠組みと考える限り、大して役に立たないのは仕方がない。個々人の細やかな特徴を掬い取るようにはどだい出来ていないのだから。しかし、一般論の役割はおそらく別のところにある。
 瀧澤さんの論点に乗っかってコメント欄にも書いたが、或る程度以上の規模をもつ社会では、その社会を維持する作業を個人間のやりとりにのみ頼ることができない。同じ町に住む赤の他人がどう振る舞うのか、全く予測がつかないような状況では生活もおぼつかなくなる。各々の社会的役割に応じて、こう振る舞うに違いないし、こう振る舞うべきだ、という「らしさ」の圧力は、社会の維持にとって不可欠なのである。つまり、赤の他人の行動を推測することができること、その推測が明日も通用するために機能するという側面を、「らしさ」の圧力はもっている。
 ところが、この圧力が当の社会に属する人々にとって、かえって厄介な結果を産むことがある。「数学科出身は合理的だが冷たい」とか、「血液型Bの人はいい加減だ」とか、お話にならんものから、あるいは「男子厨房に入らず」などというモットーが廃れて久しいにもかかわらず、女性のみに料理の腕を求める傾向は根強く残っていることなど、例には事欠かない。しかも、こうした傾向は往々にしてたんに押しつけられているのではなく、多くの人が(一般論を展開するひと自身も含めて)じつは内面化しているものだからこそ、なかなか消え去らない。では、こうした厄介事をどうあつかうべきか?個人間のやりとりで片を付けることはできない。相手にしているのは特定個人間で閉じた私的な領域ではなく、こういってよければ公的な領域だからだ。つまり、どのような「らしさ」を求める社会がより住みやすいか、それが問題になっている。


 そしてこの場面でこそ、一般論が必要になる。一般論は、「人ってこういうものだよね」という「らしさ」の再確認・強化と、「人ってこうはいかないよね」という「らしさ」の修正・転換を目的とした、「らしさ」の修理点検作業ではないだろうか。こう考えると、一般論にもそれなりの価値と役割を認めることができそうである。