脇道(神秘的な快楽主義者)

 「らしさ」の話題で考えているうちに脇道へそれて、以下の本のことを思い出した。 


「あなたはなぜ正直なのか」


道徳家


「今夜、すばらしいあなた方に集まっていただいたのは、皆さんが世界中で最も正直な人々であるとうかがっているからです。そこで私は、この機会に、真実についてのシンポジウムを開催したいと思います。あなた方はなぜ正直なのか、その理由を教えていただきたいのです。エイドリアン、あなたが正直である理由は何ですか?」


エイドリアン


「私の理由は、・・・」


(聖書が命ずるから、美徳だから、義務だから、社会の利益になるから、自分の名前が「フランク(正直)」だから(!)、正直だと快い(快楽主義者だ)から、等々の発言がつづく。)


道徳家


「よくわかりました。ではアーヴィン、あなたはいかがですか?」


アーヴィン


「僕も快楽主義者です。(・・)でも僕は、他の人と同じ快楽主義者ではありません。(・・)僕は、神秘的な快楽主義者ですから。」


道徳家


「神秘的な快楽主義者ですって? それは、奇妙な組合せですね。そんな言葉は聞いたことがない。神秘的な快楽主義者ということで、あなたは何を意味しているんですか?」


アーヴィン(悲しそうに)


「わかりません。」


道徳家


「わかりません? どうしてわからないんですか?」


アーヴィン


「あのですね。僕は、神秘的な快楽主義者ですから、もちろん快楽主義者でもあるのです。そして、もし僕が神秘的な快楽主義者の意味することを知ってしまうと、それを知らない場合よりも、不幸になるだろうと感じるのです。したがって、快楽主義的な立場から申しますと、僕は神秘主義的な快楽主義者の意味することを知らないほうがよいのです。」


道徳家


「しかし、あなたが神秘的な快楽主義者の意味することを知らないのであれば、どうしてあなた自身が神秘的な快楽主義者であることがわかるのですか。」


アーヴィン


「それはよい質問ですね。おっしゃるとおり、僕には神秘的な快楽主義者を定義することはできませんし、なぜ僕がそうなのかを理性的に説明することもできません。それでも、事実、僕は自分が神秘的な快楽主義者であることを知っている。つまり、ここが神秘的なところなのです。」


道徳家


「何ということだ。複雑すぎて、とてもには理解できない。」


アーヴィン


「僕にとってもです。」


レイモンド・スマリヤン著『哲学ファンタジー』より


 読むたびに笑ってしまうのだけれど、何がおかしいのか、とても私には理解できない。笑いのツボというものは、実にむずかしい。
 ところで「らしさ」というものもどこか「神秘的な快楽主義」と似通っていないだろうか?例えば万人が認める「大人」の定義を追求しても、飛ぶ鳥を追っかけるようなものだろう。ましてや、大人の誰もが理性的に認めざるを得ない「大人らしく振る舞うべき理由」を提示せよというのは、プラトンなみの大人物になって『国家』を書き直せ、と要求しているに近い。大事なのは、このような意味での大人の定義や大人らしく振る舞うべき理由を要求することよりもむしろ、自分が大人であると認めていることの方ではないか。(6月2日のコメント欄で瀧澤さんが言われたことも、これに近いと思う)
 そこでできることといえば、自分が大人であるならば、己の信ずる最良の形で大人らしく振る舞うよう努力することくらいだろう*1。それが、流布している「大人らしさ」からどれほど隔たったものになるかはその人次第である。
 ・・とまあ、考えてはみたのだが、これが「大人らしさ」だけでなく他の「らしさ」にも当てはまるかどうか、心もとない。


 実をいえば、アーヴィンは「神秘的な快楽主義者」で彼が意味していることをきちんと知っている*2。パズルの好きな方はご一考あれ。


 このトンチンカンな対話を書いたスマリヤンという人は著名な論理学者なのだが、マジシャン・ピアニストでもあるそうで、「チェスの定跡から老荘思想にいたるまで、一般解説書を十冊以上」(高橋昌一郎「訳者あとがき」)ものしている。ご本人も相当にトンチンカンな方のようである。こういう人、好きだ。

*1:〜であることに重きを置かないという選択肢も、実際そう思っているならば最良の選択肢でありうる

*2:アーヴィンは「自分が神秘的快楽主義者だ」と知っているが、この点だけはなくて、「自分が「神秘的快楽主義者」で意味していること」も知っている。しかし、それを知っているということは・・?